泣き虫だった子ども時代

大分県大分市で生まれ育ちました。姉と妹に挟まれた、3人きょうだいの真ん中です。
小学生のころは、とにかく泣き虫でした。授業で当てられて答えられず、その場で泣いてしまう子どもです。なぜこんなにすぐ涙が出るのかと、自分でも困っていたものです。それが中学に上がるころには、いつの間にか泣かなくなっていました。
夢中になっていたのは昆虫です。湯布院にある祖父母の家へ行くたび、カブトムシやクワガタを探して山に入りました。夏休みの宿題で将来の夢を書くことがあったのですが、私が書いたのは「ファーブル昆虫記」。本の題名を職業だと思い込んでいました。
中学からは空手の道場に通いました。初めての大会は、出場者が4人しかいない階級です。1回戦で負けたあと、3位決定戦の相手が棄権。一度も勝たないまま表彰台に上がったときの居心地の悪さは、いまでも覚えています。
お笑い芸人としての2年間

東京に出たくて、早稲田大学の商学部に進みました。学生時代は、本を読むか、お笑いのネタを書くかという毎日でした。
卒業後は就職せず、お笑いの道を選びました。決められたレールに乗ることが、どうしても嫌だったのです。父は強く反対しませんでしたが、内心は残念がっていたと思います。
活動したのは2年ほどです。相方が辞めることになり、私も舞台を降りました。売れないまま終わった2年ですが、人前に立つことを怖がらなくなったのは、この経験があるからです。
教える仕事から、書く仕事へ

その後は教育サービス業の上場企業に入り、7年間勤めました。最初の2年ほどは、教室で子どもたちに勉強を教える仕事です。難しいことを、相手に分かる言葉へ置き換える。この訓練が、いまもお客さまと話すときに生きています。
そこからマーケティングの部署に移りました。教える現場を知ったうえで、どう届けるかを考える。振り返れば、いまの仕事の原型はここにあります。
30代の半ばで、ライターとして独立。自分の力で仕事をしてみたかったからです。手がけた記事は600本を超えます。教育や決済サービス、損害保険、自治体へのインタビューなど、扱った分野はさまざまでした。クラウドワークスでは、始めて5か月ほどで上位100人のトッププロクラウドワーカーに認定されています。
そして、ハトロクスへ

AIを本格的に使い始めたのは2023年の8月ごろです。当時はまだ、チャットに質問を打ち込んで答えをもらう使い方しかありません。それでも記事づくりに使ってみると、仕事の進み方が変わる手応えがありました。
そこへAIエージェントが登場します。指示を出すだけで、調べものから下書きまで自分で進めてくれる。ここで景色が変わりました。いまは自社の営業も、記事づくりも、情報収集も、AIエージェントが毎日動いています。
そして2025年6月、株式会社ハトロクスを設立。より多くの方のお役に立ちたいと考えたからです。
泣き虫だった小学生が、人前で話す芸人になり、教える仕事と書く仕事を経て、いまはWeb集客とAIの会社。遠回りばかりの道のりですが、どの経験もいまの仕事に生きています。
